ある晴れた土曜日の昼に思ったこと
ヨガってやっぱり好き。
お香を焚き、ストレッチ後、太陽礼拝を適度に繰り返し、瞑想。
ここ1-2年はイヤなこともなく、心地がよい日を過ごせて幸せ。
瞑想したら幸せすぎて涙が出た。
こんなことも考えた。
もし、ガンなどの治らない病気になったとしても、
私はこのように自分の身体の変化を見つめ、感じ、その変化を楽しむだろう。
もしその時一人でも、
愛情を注いでくれた家族、信頼できる夫がいたという事実で
私は安心感に満たされ、
身体の変化を見つめて感じることで満たされ、不安、ストレスはないと思う。
そして、何も感じなくなって死ぬのだと思う。
別にそれでいいと思う。
逆にいうと、何も感じなくなり、何も考えられなくなったら
楽しみがないので、心臓が動くのを止めて欲しい。
1人でいることに寂しさを感じないのは、
私が大切と思う人が、私を大切にしてくれるから。
もしその人がこの世にいなくなっても、「いた事実」は私を大いに安心させると思う。
老人になり手足が不自由になって、思うように行動できなくなったら
そのまま横になって瞑想していればいいと思う。
糞尿が心地悪いことも見つめ、感じればいい。あぁ、まだ生きてるんだなって。
今は食欲があるから、満たされないことにストレスを感じるだろうけど、
その時はもう食欲もないだろう。
欲があるから満たされず、ストレスを感じる。
欲があることは若さ、生きる糧なのかもしれない。
私はたぶん、子供を産まないと思う。
責任が生じることは面倒なので、「子育て」は避けたいと思うが、
子供の思考回路には興味がある。
新たな気づきを与えてくれる存在でありそうなので、おもしろそう。
なので、「子供の友達」はいてもよいのかも、と思った。
夫の別の女の子供だと、ジェラシーを感じてしまう可能性もあるので、
「子供の友達」も一定の距離がある方がよいかもしれない。
新たな気づきを与えてくれる刺激的な存在と適度な距離感で暮らしたい。
人の話を聞き、思考回路を考え、自分の思うように仕向けて行くには
どんなことをすべきか?を考えたい。
おいしいものを食べたい。
心地よく眠りたい。
この欲が満たされているので、今はすごく幸せ。